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zoom RSS 南大門修復記念 「ソウルの城郭」

<<   作成日時 : 2013/05/03 22:26   >>

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「日本皇太子が頭を下げて通るのは…」 ソウル崇礼門の城郭を撤去

 朝鮮時代の漢陽は18.6キロの城郭で囲まれていた。崇礼門(南大門)は、外交使節が王に会うため城内に入る際に通過する漢陽都城(ソウル城郭)の正門だった。

しかし東は南山、西は西小門につながる崇礼門の両側の城郭は、大韓帝国末期の1907年から取り壊されていった。このため私たちの記憶の中の崇礼門は、城郭とはつながっていない、石築の上に二層の門楼が建った姿として残っている。

2月中に姿を現す崇礼門の最も大きな変化は両側の城郭の復活だ。文化財庁は周辺の交通を妨げない範囲内で東側に53メートル、西側に16メートルの城郭を再建した。

崇礼門城郭の消滅と復活にはいろいろな話がある。1396年(太祖5年)に崇礼門とともに完工した城郭はなぜ消えたのだろうか。そしてどんな姿で戻ってくるのだろうか。

◇日本皇太子を迎えるため西側を取り壊す
 崇礼門の城郭が消えたのは1907年10月、日本の皇太子・嘉仁の朝鮮訪問を控えていた時期だった。当時、皇太子の訪問が伝えられると、日本側が「大日本の天皇の世子が弱小国の都城の城門に入るのは屈辱的なことだ」と主張し、西側の城壁を取り壊して大きな道をつくったという話が伝わる。「日本皇太子が頭を下げて門をくぐることはできない」と述べたという話もある。

 この説はどれほど信憑性があるのか。史料にはこれに関する記録がない。日本に対する反感が生み出した話という解釈が出てくる理由だ。しかし当時、漢陽を囲んだ城郭のうち崇礼門の周辺が真っ先に崩され、その時期が皇太子の訪問と重なるという点から、日本からの圧力があったという予測は可能だ。

◇電車の事故も多発
 『高宗実録』高宗44年(1907年)3月の記録には、議政府参政大臣の朴斉純らが高宗皇帝に崇礼門の左右の城郭を8間ずつ取り壊すことを要請する内容が出てくる。「崇礼門の周辺は人々で混雑し、車や馬が頻繁に出入りし、電車がその真ん中を通るので接触事故が頻発する」というのが理由だ。

続いて同年6月には、内閣総理大臣の李完用らが興仁之門(東大門)と崇礼門の周辺の残りの城郭まですべて撤去することを王に求め、許諾を受けたという内容が記録されている。

(以下略)

中央日報日本語版 2013/1/13


 大韓民国の国宝第1号の崇礼門(通称:南大門)は、2008年2月10日に放火され木造部分が焼失してしまいました。その崇礼門が復元(韓国では復元ではなく復旧としているらしいですが・・)されお目見えするそうですが、その復元工事の際に取り壊されていた城郭部分もできるだけ再建するという中央日報の記事です。記事中の城郭を壊した理由が

 日本皇太子が頭を下げて門をくぐることはできない」と日本側から圧力をかけたという予測は可能だとか「・・・・という話もあるが、このことに関する記録はない」
画像

とか・・・相変わらずの記録とかはなくとも自分たちに都合の良い主張や解釈をする人たちです。まぁ実際の時には一進会が奉迎門を建てたりしたんで門はくぐったと思いますが、実際のところは1898年と1899年に電車を敷設するために城郭の一部が除去されていますし(那秀昊韓国外国語大学校通訳翻訳大学院教授 「ソウル城郭− 都心に息づく歴史」)、南大門の城郭は1905年の京釜鉄道開通に伴い人や物資などの流通が始まったため道路整備のために城壁が邪魔だったというのが本当のところではないでしょうか。日帝が城壁を壊したのならば、現在ある道路とかも潰して城壁を完全復元したらどうだ・・・と思いますが、そうしないで「日帝が〜」と言い続けるところがかの国でもあります。

ということで「日帝が〜」とよく言われるソウルの城郭とかそれに関する門などを調べてみました。

 韓国の首都ソウルは、李氏朝鮮時代の1395年漢陽府を改め「漢城府」となり、その後1910年(明治43年)の韓国併合後、同年9月30日に施行された朝鮮総督府地方官官制に基づき「京城府」と改称されました。李氏朝鮮時代に、都城(今の景福宮・青瓦台)を中心に周辺の山々の尾根に沿って城壁をつくり、その東西南北に4つの大門(下図の赤枠)、その間に4つの小門(下図の青枠)を設置しました。その4大門が東大門(興仁之門)、西大門(敦義門)、南大門(崇礼門)、北大門(粛靖門)で、小門は北小門(彰義門)、東小門(恵化門)、南小門(光熙門)、西小門(昭義門/昭徳門)です。中でも南大門は最も規模の大きな城門で都の正門としての役割を果たしてきました。


 城郭は元々都城の防御を目的に建設されましたが、16世紀後半から17世紀初頭にかけて起きた激動の時期には本来の役割を果たせませんでした。いくら丈夫な城郭であっても、城を守り敵に対抗できる兵力がなければ奪われるしかないということです。
 1592年に日本が進軍してきた際、宣祖と朝廷の臣下らは、城郭を無防備のまま捨て去り、首都を背に避難してしまいましたし、1624年に李という武官が反乱を起こした際にも、抵抗すらできず首都を明け渡してしまいました。

 画像さらに1636年、清が侵略した時にも、仁祖はソウルを離れて南漢山にある山城に避難しましたが清の軍隊が南漢山城を包囲して王を降伏させました。
 これが有名な「丙子胡乱」で、仁祖は城を出て、漢江南岸の三田渡にある清軍陣営に出向き、清に対する降伏の礼を行わされました。仁祖は朝鮮王の正服から平民の着る粗末な衣服に着替え、受降壇の最上段に座るホンタイジに向かって最下壇から三跪九叩頭の礼による臣下の礼を行い、許しを乞い、「三田渡の盟約」と呼ばれる条約を結ばざるを得なければなりませんでした。そしてそこには「新旧の城郭は清の事前の許可なく修理・増築を行わないこと」と言うのもありましたので18世紀に入ってから粛宗がその条約を破るまで修復等はできませんでした。こういう屈辱的なことは韓国の新聞等は書かずに1700年代初めに修復したことだけを書いています。


 ・朝鮮は清に臣下の礼をつくすこと。
 ・朝鮮は明からの誥命(朝鮮王冊封の文書)と冊印(朝鮮の国璽)を清に献納すること。
 ・明と絶交し明の年号は使わないこと。
 ・王の長男と次男、および大臣の子、大臣に子がない場合はその弟を人質として清に送ること。また何か不慮なことが起これば、人質の王子を朝鮮王に擁立するので覚悟しておくこと。 
 ・清が明を征服する時は、命令を下し、使いを送るので、場合によっては数万規模の歩兵・騎兵・船員を求められた期日までに、遅れることなく派遣すること。
 ・清が椵島(鴨緑江の河口にある島)を攻め取るため、船50隻・水兵・槍砲等を準備しておくこと。
 ・聖節(清の皇帝の誕生日)や正月等、慶弔時は慣例に従い、大臣や内官が献礼にくること。
 ・清軍の脱走兵が鴨緑江をわたり、朝鮮に逃れた場合、送還すること。 
 ・内外の諸臣と婚姻を結び、友好を固くすること。
 ・新旧の城郭は清の事前の許可なく修理・増築を行わないこと。
 ・日本と貿易を行うこと。
 ・ 毎年黄金100両・白銀1000両のほか、水牛角弓面200副・豹皮100丁張、鹿皮100張等、20種目の物品を献納すること。


画像

『京城界隈図』(クリックで拡大します)


 図の一番左に緑枠で囲んだ門があります。義州を経て北京に至る街道に建てられ、李氏朝鮮時代は冊封国であった朝鮮の歴代の王が中国の皇帝の使者を迎えるための門がありました。朝鮮国王がそこまで迎え出て、勅使に対して「三跪九叩頭の礼」行ない出迎えたのです。これが「迎恩門」です。
 画像「迎恩門」は、1536年に「迎詔門」として建てられましたが、1539年に明の使臣で来た薛廷寵は、使臣は中国皇帝の詔書や勅書や下賜の品々を持ってくるのに、門の名前が「詔だけを迎える」ではおかしいと言いがかりをつけ、朝鮮側は名前を「迎恩門」に変えました。(wiki)
 そして日清戦争後に迎恩門を取り壊し「清の冊封体制からの独立」を記念し「独立門」が建てられました。

 さて記事中には「外交使節が王に会うため城内に入る際に通過する」とありますが、中国の使者の場合も「迎恩門」で迎えた後、近くの西大門ではなくわざわざ遠回りして南大門から入ったのでしょうか。良くわかりません。
 各門は一斉に開閉するために鐘で知らせました。早朝の鐘を「罷漏(パル)」、夕方の鐘を「人定(インジョン)」と言います。「罷漏」は午前4時頃に33回鐘をついて門限を解除し、各門を開きその日の活動を始めました。また「人定」は夜10時頃に通行禁止を知らせるために28回鐘をつき、都城の門を一斉に閉じました。(ソウルニュース

 中国での風水における四神相応は、背後に山、前方に海、湖沼、河川の水が配置されている「背山臨水」の地を、左右から砂と呼ばれる丘陵もしくは背後の山よりも低い山で囲むことで蔵風聚水(風を蓄え水を集める)の形態となっているものをいう。この場合の四神は、背後の山が玄武、前方の水が朱雀、玄武を背にして左側の砂が青龍、右側が白虎である。(wiki)

 つまりソウルも、東西南北の各方位が『青龍』、『白虎』、『鳳凰』、『玄武(黒い大亀)』の四神で守られた地形あるいは地勢で作られた都市で、背後の山に北大門(粛靖門)を置き、前方には漢江があるので南大門(崇礼門)を置いています。鉄道などの近代的なインフラができる前は「水運」が主でしたので、漢江を使って船で人や物資を運んでいたため漢江に近い南大門が漢城の入口と言われる所以でしょう。

 さて朝鮮日報韓国語版2009/05/19に「1899年最初の電車開通式の写真最初の発見」と言う記事があります。
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 明治32年(1899年)5月4日(旧暦4月8日)午後3時に東大門で行われた路面電車の開通式に集まった人たちの写真です。下の写真には星条旗と太極旗が見えます。

 明治28年(1895年)10月8日、王宮内で朝鮮の妃(閔妃)が暗殺されるという事件がありました(乙未事変)。翌年 米国人コールブランらは、王の大行列の経費が1回で当時の10万wonもかかることを知ると路面電車の敷設案を出しました。経費節減と時間短縮の両方を解決し、平素は市民の公共交通手段として利用するという案です。10万wonは、当時80kgの米が1万袋以上買えた金額だそうです(朝鮮日報)。

 そして韓国王室と米国人コールブランらが半分ずつ出資し資本金150万円で漢城電気会社を設立し明治32年(1899年)西大門から洪凌(清涼里)までの単線の路線が完成しました。そしてその後南大門、旧龍山方面への延伸がされました。

 朝鮮日報には「朝鮮皇室が単独出資して」と書かれていますが、これは間違いで50%出資ということは韓国電力公社(KEPCO)の歴史が書かれているサイトにもそのように書かれています。

 しかしその当時、城内の道路事情と言えば「本来道路幅12・3間乃至14・5間もあって李朝開国当初は規模整然だったのが風紀が緩み、2間乃至3間の粗造なる露店同様の小屋を開帳し路面を犯すようになった。国王の行幸又は国家の儀式ある時は一令の元撤去し、終わると建てることを許す」と言う有様で、軒先は乱れ、道路は凸凹という状況のようです。(京城南大門通リ犯路家屋取毀方落着ノ顛末具報ノ件 明治30年1月) 
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レファレンスコード B12083364600


 こういう状況は次の絵でも見て取れます。これは1909年2月にイギリスで掲載された絵で「ソウルでの自動車のデモンストレーション」で、電車ではないですが人々が混雑する様子です。
画像
1909/02/20イギリス


 ただ道路等整備しようにも李氏朝鮮末期は金がない時代でした。隆熙3年8月(日本では明治42年、1909年)発行の「韓国財政概況」という資料が近際デジタルライブラリーで見ることができます(http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/799648)。李氏朝鮮末期の財政を知ることができる資料ですです。それによれば光武9年(明治38年)の歳入「748万円」で歳出は「955万円」で大赤字です。こうしたことから日本から借金をして、1907年の『禁煙による国債保償運動』へと続きます。(参考:「大邱といえば・・・国債報償運動」

 下の図は昭和4年(1929年)「京城電気沿線御案内」。併合から20年を記念して行われた朝鮮大博覧会宣伝用に作成された案内図です。
画像

 
画像その朝鮮博覧会では、時の内閣総理大臣濱口雄幸は開会式の式辞で

「回顧すれば明治43年初めて朝鮮に総督府を置く、常時 旧朝積弊の後を承け、財用給せず、文化興らず、産業衰徴し(中略)、20年を経過して 半島の統治全く面目を一新す。財務税制の整理、幣制の刷新司法権の独立、教育の普及、産業の振興、交通の発達、治安の維持等 快刀乱麻を断ちて廃頽の土を傾倒に回へし、今や文物燦然として衆目具謄す。(以下略)」

と述べています。「積弊とは、長い間に積もり重なった弊害」のことです。
簡単に言えば「旧朝鮮王朝の悪政で発展もせず民衆は疲弊しているのを20年かかって近代化し発展させた」ですね。

 その様子は、山の形に注目して同じような位置から写された写真を年代別に並べてみるとよくわかります。東大門からの写真のようですが道路の幅に注目してみてください。


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1880年頃
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1890年頃
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1900年頃
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1910年頃


 そうして発展していったソウルの街で、そのシンボルとも言える崇礼門ですが、過去に幾度か修復されています。下の図は朝鮮戦争で崩れかけた崇礼門とその修復の様子です。
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 そして今回の復旧ですが、龍の顔が微妙に笑える顔になっていたり、奇跡的に焼けずに済んだ「崇礼門の扁額」も色使い等が変わってたり・・・やはりケンチャンナヨ〜なのでしょうか。
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