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zoom RSS 南大門修復記念 「ソウルの城郭」 その3

<<   作成日時 : 2013/05/06 21:17   >>

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■西大門(敦義門)

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西大門と城郭。右側が城外


 1394年に朝鮮を建国した太祖は漢陽に遷都しました。その際、あらゆる制度と施設を整備しなければならず、宮殿と共に、儒教国家にとってもっとも重要な宗廟が建てられ、さらに1396年には城郭の建設も始まりました。漢陽は周囲を山に囲まれていて、特に中心部は 「内四山」と呼ばれる山々(北側の北岳山(342m)、南側の南山 (262m)、東側の山(125m)、西側の仁王山(338m)を指します。)によって四方が囲まれています。

 城郭は、山地は石、山間に広がる平地は土城で、四つの山を連結しています。もともと、城郭のほとんどは1396年に完成しましたが、城門とその他の防御施設の完成までにさらに数年を要しました。約20余年が経ったのちに、世宗大王は毀損した城郭の全面的な補修整備の事業を命じ、1422年の城郭補修工事には、全国各地から30万人以上の民が動員され、わずか5週間で、既存の石城と防御施設を補修し、土製の城は石城に変わったと言うことです。
(「ソウル城郭− 都心に息づく歴史」 那秀昊韓国外国語大学校通訳翻訳大学院教授)


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 李氏朝鮮末期の1899年4月東大門の横に発電所が併設され、「西大門−清涼里間」に単線未舗装ながら電車の運行が始まりました。当初は鍾路を東西に貫くルートで、乙未事変(1895年)で死んだ第26代国王高宗の王妃「閔妃」の墓所を北部の清涼里の洪陵に築造しました。米国人コールブランは従者を多く連れる行列での参拝は多額の費用を要することから、路面電車を敷設し普段は民の移動手段とすることで、経費の削減と増収の一石二鳥を図れるとしました。(wiki)

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閔妃国葬と言われている写真

 上記は閔妃国葬と言われている写真ですが、閔妃の葬儀は朝鮮国内の事情から事変から2年後の1987年に行われています。写真をよく見ると電柱らしきものが映っているので葬儀の時には既に工事が始まっていたのかもしれません。ちなみに日本での電気鉄道は1895年に京都電気鉄道によって最初の一般営業用電気鉄道として開業されています。

 現在のソウル市鍾路区に「新門路」という地名があります。これは西大門(敦義門)が太祖5年(1396年)に建てられた後、世宗4年(1422年)に現在の鍾路区新門路2丁目付近に移されたためです。これに関して東亜日報に面白い記事が載っています。


[オピニオン]敦義門の復元

 朝鮮の首都・漢陽は、朝鮮開国の功臣である鄭道傳の陰陽五行説によって設計された計画都市だった。朝鮮建国の思想的基盤である儒教の理念や仁義禮智信の陰陽五行思想は、漢陽の城郭にもよく現れている。漢陽城郭の出入り口である興仁門や敦義門、崇禮門にそれぞれ、仁義禮の文字が書かれている。鐘を吊るための楼閣のである普信閣には「信」の文字が含まれている。興仁門や敦義門、崇禮門に北門の肅靖門を入れたのが4大門だ。

 漢陽都城の西大門は、敦義門だ。鄭道傳が名づけた敦義門は、文字通り「義」の実践に力を入れるという意味だ。

 1396年(太祖5年)、現在の社稷トンネル周辺に建設されたが、1422年(世宗4年)、鍾路区・新門路2丁目に移された。壬辰倭亂(文禄の役)の時、宣祖が日本軍を避け、宜州に避難するために離れる時も、この門を利用した。壬辰倭亂の時に焼かれたが、1711年(肅宗37年)再建され、日本植民地時代の1915年、日本帝国による電車の複線化をうけ撤去された。

 朝鮮王朝実録によると、元々敦義門のあったところは、開国功臣の李叔蕃の邸宅前だった。しかし、李叔蕃は、定宗が居住していた仁コ宮前の小さな渓谷がふさわしい場所だと主張し、場所を変更させた。李叔蕃は、自宅前に庶民や馬車が往来する門を構えたくはなかっただろう。

 個人の利害関係のため、公共事業の場所が変更となった事例だ。李叔蕃は、権力を過信し、傍若無人に振る舞い、流されたところで最期を迎えた。それでも庶民らは敦義門を「新門」と呼びながら便利に利用し、今日の新門路という名称もここから由来している。(以下略)


東亜日報日本語版 2012/12/11

 元々西大門があったのは李氏朝鮮の官僚で「李叔蕃」と言う人の邸宅前だったようです。しかし庶民や馬車が往来する門を構えたくはなかったので門を移させたと言うことが書かれています。それで新たに門が移ったので西大門は新門と呼ばれるようになり、付近の道が新門路というようになったということです。
 
 「李叔蕃」は、韓流ドラマにも登場する程の人で、性格は傲岸不遜でその上に太宗の寵を誇ったため、周囲の反発を買って弾劾を受け失脚し、結局1417年に流刑となったそうです。(wiki)

 ・・・・・ん?、1417年に流刑?じゃあ李叔蕃が失脚した後の1422年に西大門を移したということ?幾らなんでもそれはないでしょうね、失脚して5年後に移すなんて。

 まあ、韓国では何かあったら「○○のせいだ」と言うのが好きですから、西大門が移ったことを後世の人が李叔蕃のせいにしているんでしょうね。それにしても東亜日報も「個人の利害関係のため、公共事業の場所が変更となった事例だ」なんてもっともらしくwww。

 韓国では西大門も他の門と同様に「壬辰倭乱(文禄・慶長の役)で焼失した」と書かれています。その後1700年代粛宗や英祖の時代に再建されたということですが、2010年4月27日ソウル市は敦義門復元事業の考証資料を収集する過程で、国立古宮博物館が扁額の実物を所蔵していることを確認したと発表しました。その扁額裏面には「粛宗37年(1711年)留学チョ・ユンドクが書き、英祖25年(1749年)に営建所で改造」と書かれているそうです。
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 丙子胡乱は、当時朝鮮が従っていた明から変わった清が、朝鮮に対して臣従しろと迫った事で朝鮮が反発したために起こりました。清は朝鮮に10万とも言われる軍隊を送ったのですが、当然陸路北西方面から漢城に迫った清軍に対し清と戦う準備をしている朝鮮軍、西大門付近は真っ先に戦闘地域になったと考えられますがどうでしょう。

 結局、朝鮮朝廷は漢城の北西の江華島へ避難しようとしたのですが、清の軍に道を阻まれ、漢城の南東にある南漢山城で40日あまり籠城したあと、朝鮮王仁祖は城を出て漢江南岸の三田渡にある清軍陣営に出向き降伏の礼(三跪九叩頭の礼)を行わされ、三田渡の盟約を結ぶことになりました。

 その時清のホンタイジは、自身の「徳」と仁祖の「過ち」、そして両者の盟約を示す碑文を満州語・モンゴル語・漢語で石碑に刻ませ、1639年に降伏の地である三田渡に建立させた。これが「大清皇帝功徳碑」です。
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左:南漢山城 右:2007年の落書き(表裏面に撤去丙子370と書いている)

 ちなみに、現在南漢山城付近は公園となっていて韓国の歴史ドラマの撮影なども行われているそうです。

 さて1700年代に再建された西大門ですが、1915年に電車複線化などを理由に取り壊されたようです。門楼は総督府土木局調査課が主導したオークションにおいて205円で京城在住の廉徳基と言う人物が落札しました。その後、城郭も撤去され、その石は道路に利用されたようです。
 
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 韓国では「日帝が〜」と盛んに言っていますが、元々城門も楼閣も朝鮮王の持ち物なので総督府が勝手に売ることはできません。「総督府土木局調査課が主導」と書かれていても元の持ち主が売ろうとしない限りは売れないのです。もちろん「解体するのは惜しい」と思えば移設と言う方法もありました。しかし当時は城門としての役割は終え西大門と近代化の道から近代化を選んだのです。
 
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左:整備前 右:整備後

 それは門付近を見ても電車道の整備前後の写真を見ても整備に伴い道路幅が広くなり周辺の家もきれいになっています。鍾路(図の赤点線)は京城の中心道路で1920年頃の写真では電車複線化に伴い道路も拡張されています。
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左:京城交通図 右:1920年頃の鍾路

 この鍾路を西方面へ進むと西大門があるのですが、西大門を過ぎると、北方面の平壌・清へと続く街道と南方面の鉄道京釜線の京城駅に向かう道路となります。従って近代化に伴い増え続ける交通量を考えると、門や城郭の存在は問題となるのは当然のことでした。

 大正6年(1917年)の京城日報に「朝鮮の冶道計画」と言う記事があります。そこには、鉄道、築港、土地調査に治道事業を含め4大事業としています。しかし「当時に於ける朝鮮は何れの地方を見ても車輛を通ずべき程の道路は無く朝鮮の道路図は殆んど白紙であった」と言う状況ですから、総督府が整備する道路は「道路網の総延長三千余里に上るから一里平均一万五千円としても総計四千五百万円の改修費を要する」と言うことで一度にはできないので、一期治道を6年半1000万円の予算で行ったということです。その効果について紹介します。

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京城日報 大正6年(1917年)/10/7


改修の効果

 旧時の朝鮮は殆ど車輛の通行し得べき道路が無かった為め物資の輸送は総て人肩馬背に依り加うるに峻坂峻路随所に相続くの状況で、交通運輸の困難名状すべからざるものがあった。十里の行程に二日以上を費したり、米一石の搬出に数円の運賃を要する為め原産地に於ける米の売価一石僅かに三、四円に過ぎなかった様な実例は珍らしくなかった。

 七年前如斯状態であったものが、今日に於ては主要なる道路は、概ね荷牛馬車の通行せざるなく交通頻繁の区間には自動車の運転を見るに至ったのは誠に隔世の感がある。

 試に明治四十三年と最近との車輛の戦を比較するに、人力車は九百から四千に、荷車は千三百から一万一千に
、荷牛車は三万六千から六万八千に、荷馬車は四百から二千二百に増加して居る。自動車の如きは全く無かったのが今日は九十余台の自動車が数十箇所四百里の運転を営業して居る。
 
 此の非常なる車輛の増加は即ち運賃の低下輸送の迅速を証明するもので従て物価も各地方を通じて自然に平均し需要供給の関係も円滑になり一般取引の敏活、産業の発展に資する所甚大なるは言う迄もない所である。



 韓国では漢陽都城を世界文化遺産の暫定リストに登録させたことをきっかけに4大門のうち復元されていない西大門を復元しようとしています。以前からある写真等と先に見つかった敦義門扁額の大きさ(縦108.3cm、横233cm)から復元するようです。
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西大門完成予想図



日帝が崩した "敦義門の復元 不透明

 原形復元も難題だ。 過去写真などが残っていて外形はある程度推定が可能だが内部の詳細姿を分かることは容易ではない。 このために拙速に復元をしてはならないという指摘が絶えることなく続く。 匿名を要請した市漢陽都城諮問委員は「復元が容易ではない状況で拙速復元されることならばいっそ復元をしないほうがましだと見る」と話した。

 当初にない門楼を作ってかえって原形を傷つけたという批判がある粛靖門でも本来位置ではないところに建てられたうえに細部的な姿でエラーが少なくない恵化門など間違って復元された事例が少なくない。


文化日報(韓国語機械翻訳) 2012/12/10

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