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zoom RSS 南大門修復記念 「ソウルの城郭」 その8

<<   作成日時 : 2013/05/15 01:46   >>

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 朝鮮時代、ソウルだけではなく他の都市も城郭都市でした。ソウルの場合「日帝が〜」という理由で城郭や門楼が壊されたとされたのが多かったのですが、他の都市ではどうでしょう。今回は大邱について見てみます。

■大邱の城郭

大邱は、「朝鮮満洲旅行案内」(昭和7年 鮮満案内所)には次のように書かれている街です。

 慶尚北道庁の所在地、朝鮮第四の都会南朝鮮第一の商業都市にして古来朝鮮三大市場の一として知られ、水陸交通上至便の位置を占め、且つ慶州方面へ行く東海中部線の分岐点として、其経済圏は慶北、慶南両道に及んでいる。

 当時の大邱の状況について、また明治39年(1906年)の荒川五郎著「最新朝鮮事情」から見てみます。

○大邱府を巡っている城郭は二百年前に造ったので、高さは三間周りが二十町、四門を設け、鐘路は最も賑やかな中樞路で、商家が櫛の歯の如く、観察府は城内に在って慶尚北道四十一郡を支配し刑務所や鎮西隊などがあり、城の内外に住んでいる朝鮮人は三萬ばかり、戸数は五千位である。

○日本人の住んでいる者は二千人に近く、西門外市場付近の如きは、多くの朝鮮人家は悉く日本人の住み家になって、全く日本街の有様を示している。

○宣教師の如きも早くから入り込み仏国宣教師はの如きは府東丘陵の上に大きな会堂を建て、十数年前から在住して専ら布教に従事し数千の信者を有している、また米国宣教師も五六年前から、これも大きな会堂を建てて盛んにやっている。

○文明物件も朝鮮人に及び、ツイ三十六年(注1903年)頃迄は朝鮮人で蝙蝠傘を携えているものは殆ど無い有様であったものが、三十七年になって山間でも少し身分あるものは皆蝙蝠傘を持つようになり、巻煙草や燐寸、石油など著しく需要を増し、鞄や手提画燈、石鹸、日本鍋、火鉢等も日々に朝鮮人に需要されるようになった。

○大邱では毎月の例市が東門外では四九の日、西門外では二七の日に開かれるので十何里余所からも沢山人が来る。此他此地には尚毎日朝市も開かれ、市場の盛んなのは全国一と言われるほどである。


 当時の大邱には、大門が4箇所。北門(拱北門)、西門(達西門)、東門(鎮東門)、南門(嶺南門)と、別に小さな門が2箇所(西小門、東小門)在りました。
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左:南門(嶺南第一閑) 右:1980年再建された嶺南第一閑

 英祖12年(1736年)の改築により土城から石城になったと言われています。またこの時南門に「嶺南第一関」の額が掲げられました。さらに李太王7年(1870年)に城壁の大修理工事が、時の慶尚監司金世鎬によって行われました。この時、東西南北4門の門楼を改建重修し、さらに新しく城壁上に南に宣恩、東に定海、西に□勝、北に望京という4の楼閣(標楼)が建てられました。

 この大邱の城郭の取り壊しがいつだったのか・・と言うのははっきりしています。1907年4月に全て取り壊されました。

 1905年鉄道京釜線の全面開業となりますが、これと並行して城壁に囲まれた大邱は不便になり、城壁の取り壊しが話題となります。そして1906年に日本居留民団が提案し、それを受け10月当時の大邱郡守朴重陽は城郭の撤去を朝鮮政府に申し入れます。この理由としては、城の石垣等が崩れた危険で、この際城郭も撤去し五間道路を大邱の事業として行いたいが如何かと言うことです。しかし朝鮮政府の許可が下りないまま取り壊し作業が行われ1907年4月に撤去されてしまいます。南門は残して移設されたとも言われていますが確認はできませんでした。
 
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 1907年2月釜山の富豪「大池忠助」は、撤去後の道路を七間幅に整備し、五間を道路二間を店舗等用地として整備する計画を出します(大邱城址改修請願書)。大池は費用を全て負担する代わりに残りニ間幅の土地を99年間無償貸与して欲しいというものです。店舗や土地の賃借で利益を得る計算でした。
 大邱の居留民たちは当然釜山の富豪に大邱の中心を牛耳られることに反対し、居留民団の事業として5千円を出し7間道路とすることを決定し輪回道路が完成しました。その後1909年東西南北に走る十字道路を作り、現在の大邱の道路の基礎が完成しました。

 
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左:1905年頃の大邱  右上:城壁跡の7間の環状道路と12間幅の東西南北の十字道路
左下:現在の大邱 ほぼ当時のまま発展したのがわかる


 城壁跡の7間の環状道路と12間幅の東西南北の十字道路ができたことで京釜鐵道と市内との連絡が便利になり大邱は近代化への道を進みます。

 しかしwikiを読む限り、大邱を近代化させるために城郭の撤去を行った当時の大邱郡守「朴重陽」ですが、全く評価されていまません。日本人商人の利益優先とか、城郭の撤去は「民族の生気抹殺のため」とまで言われています。

【参考wiki】 大邱の城郭取り壊しに関する記述
 ・「大邱邑城」
 ・「朴重陽」

 しかし上記wikiの出典を見ると2003年とか2004年頃の新聞等です。この時期は韓国では「親日派清算」という事をやっていましたので朴重陽のことを悪く書いているのでしょう。事実彼は「親日派」と認定されその財産は没収されてしまいました。(親日派財産257億が国家帰属…「親日清算の具体的成果」 中央日報 2007/08/13
 つまり大邱の場合は「日帝が〜」ではなく「日本人と結託した朴重陽が〜」となっています。

 
 さて朝鮮時代の三大市場(大邱、平壌、江景)の一つと言われた大邱の市場ですが、城郭の西側にあったので西門市場と呼ばれていました。当時は簡単な日除けのテントや傘を立てただけの露店販売で雨が降ると市は中止となったそうです。今で言えば大規模フリーマーケット的なことでしょうか。
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左:移転後1929年頃の西南市場 右:現在の西門市場

 西門市場は、大正15年(1926年)12月にさらに西南の沼を埋立して5千坪の敷地を造り移動し「西南市場」となり
ました。市の敷地は品物ごとに5間幅の道路でブロックに別れていて牛家畜、水産物、農産物、衣料、雑貨と整然と区画され、屋根のある公設市場も設置しました。そのため周辺に常設の店舗が増えていきました。
 戦後は、西門市場に改称され大きな市場の建物がいくつも建ち、大邱の台所として毎日賑わっています。

 
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左:大邱での三星商会 右:三星商会で扱っていた麺の広告


 さて市場等を見ても明らかなように発展する大邱ですが、1938年3月1日に大邱で設立されたのが現在のサムスンの前身「三星商会」です。当初は食料品などで麺なども扱っていたようですが、三星商会が大邱の発展と共に大きくなったと言っても過言ではないと思います。サムスンは「親日派」とレッテルを貼られ財産も没収された朴重陽に足を向けて寝られないのではないでしょうか。



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