日本人と韓国人 その似て非なる事 

アクセスカウンタ

zoom RSS 韓国慰安婦サイトにある『慰安婦証言』を見てみよう

<<   作成日時 : 2014/01/31 12:32   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 17 / トラックバック 0 / コメント 0

『女性家族部』(wiki)
 韓国政府の行政機関で、女性政策の企画・総合、女性の権益増進などの地位向上、家族と多文化家族政策の樹立・調整・支援、健康家庭事業のための児童業務及び青少年の育成・福祉・保護に関する事務を遂行する

画像
チョ・ユンソン女性家族部長官とホンダ議員


 
 現在慰安婦問題を取り扱っている韓国政府機関は「女性家族部」です。その女性家族部が慰安婦問題に関してサイトを開設・運営しています。

『日本軍慰安婦被害者e-歴史館』



『慰安婦の定義』 
 日本が満州事変(1931年9月18日)を起こした時期から太平洋戦争で敗戦した1945年まで戦争を効率よく遂行するという名目で設置した「慰安所」に強制的に動員され、日本軍によって性的奴隷としての生活を強いられた女性たちのことである。慰安婦は、文献と証言の中に酌婦、特殊婦女、醜業部、芸妓、娼妓、女給などの名称として登場し、慰安所は、陸軍娯楽所、倶楽部、軍人会館、朝鮮料理屋などの名称で呼ばれていた。

『日帝下日本軍慰安婦被害者に対する生活安定支援及び記念事業等に関する法律』
第一条(目的)
 この法律は、日本によって強制的に動員され、慰安婦としての生活を強制された被害者を保護・支援し、日本軍慰安婦被害者の名誉回復と真相解明のための記念事業を行うことにより、被害者の生活安定と福祉の増進を図り、国民の正しい歴史認識の確立と人権の増進に資することを目的とする。 [全文改正2008.12.19]


 またこのサイトには現在慰安婦33人の証言がDocファイルで公開されています。その証言の中には上記の「定義」や「法律」等に照らし合わせると疑問を持たざるを得ない証言があります。今回はその中からいくつか証言を紹介します。(注:すべての証言から選んだわけではありません。抜粋です。興味のある方はe-歴史館を参照してください。)

----------------------------------------------------------

■No25 玄炳淑 (1917年1月9日生)
 酒を売る店にいたこともあった。酒を売りながら体も売る店には行かずに、酒だけを売る所にいた。だいたい2、3年位いたと思う。その店では牛肉汁かけ飯や、店で作った餅や、緑豆チヂミを売っていた。夜には瓶詰めの酒や、肴を添えた酒など、色々なものを売っていた。2年間の期限付きで500円をもらって働いた。そのときに稼いだお金を両親に渡して、兄を結婚させた。そうして2年間働いてから、家に帰った。

 中国で日本の奴らが戦争しているところに行けば、お金を束で稼げるという話を聞いた。

 その話を聞いて、15、16歳のとき(1934年)、博川市内に女性を買いに来た男の所へ、わたしのほうから訪ねて行った。父を説得して許しを得て、父に契約書を書いてもらい、祖父と祖母の判まで押して渡した。そうやって、3年の期限付きで3,000円を受け取った。

 5,6人の女性たちと汽車に乗り、新義州を経て中国へやって来た。見知らぬ土地にひとりで出て来て苦労した。主人たちは、罵ったり、殴ったりした。それで、泣く女性たちも多かった。阿片を吸うことを覚えて、堕落者となって死んだ女性も多かった。自殺する女性もいた。

 軍隊が建物を準備すると、主人は部屋を区切って、女性たちに一部屋ずつ割り当てた。そして、客をその部屋のひとつに入れた。寝て出てくると、別の人がまた座っていて、すぐ入ってきた。その当時、わたしは日本の名前で「スズコ」と呼ばれていた。

 慰安所ではお金をくれなかった。むしろ、借金を返済していく形だった。借金がある女性たちは4分だった。月に一度計算をして、誰々はいくら、誰々はいくら稼いだと言われた。ご飯を食べるのにはお金を出さなくてもいいが、服は自分で買って着た。軍人たちは、一度寝るのが2円だった。しかし、わたしはお金を受け取ったことがなかった。4分はその「家」で寝泊りし、ご飯も食べたりしたからだ。だから、服も良いものを買って着たいと思ったら、主人からお金を借りなければならなかった。借りたら、またそいつが差し引かれるのだ。そうやって生活してから、出てきた。

この証言では、体を売らない飲み屋では2年500円、一方慰安所は3年3000円の前借金で、自分から身を売ったということが書かれています。また、軍は建物を建てるけど、部屋を区切ったり女性を割り当てたのは主人の役目だったということです。

----------------------------------------------------------

■No21 朴次順 (1923年4月15日生)
 17歳になった年に、後に嫁になるために養女として嫁いだ。夫の名前はイ・ジョンワンで、わたしより8、9歳も年上だった。でも姑にいじめられたので、結婚生活はあまり幸せではなかった。だから逃げ出した。祖母がわたしを探し出して家に連れて帰ってくれたが、わたしはまた逃げ出して、光州へ行った。

 光州では、酒樽から酒を汲んで売る売り子をして生活した。ところが給料があまりにも少なくて、社長から金を借りて使っていた。その借りた金が膨らむと、社長はわたしを京城にある売春業者に売ってしまった。京城で1、2年ほど体を売って生活をした。その後、京城の主人が今度は中国にわたしを売り飛ばした。2、3日ほど汽車に乗り、中国の東北部を経て湖南省へ行った。湖南省へ行ったとき、20歳を少し過ぎていた。

 1942年頃と記憶している。そのとき、汽車の中には3、4人ぐらいの女性たちが一緒にいて、わたしを連れて行ったのは朝鮮人の男だった。わたしを連れて行った朝鮮人の男は慰安所の管理人で、女性たちと一緒に暮らした。朝鮮人の管理人は結婚しているようだったが、子どもはいなかった。

 わたしがいた湖南省の慰安所は平屋建てで、部屋が十数部屋もあった。慰安所の周りには数棟の建物があり、その中には2階建ての建物もあった。わたしがいた慰安所には朝鮮人の女性だけがいて、10人を少し超える人がいた。日曜日には軍人だけがやって来た。軍人の中には、日本人も朝鮮人もいた。日曜日を除く他の日には、民間人も来た。多いときで1日に15人ほどが出入りした。

 慰安所生活において、外出は比較的自由だった。外出するときは、ひとりで出かけることも、数人で一緒に出かけることもできた。しかし、わたしは慰安所の外に出たことがなかった。わたしが見たのは戦争の様子で、飛行機が通り過ぎながら爆弾を投下する光景も目にした。一週間に一度、日本の軍医が来て性病検査をした。病気になったことはないが、606号注射について聞いたことはある。(注:606号注射とは梅毒用サルバルサン注射のこと)


借金のかたに業者に売られたということですが、売られた先は民間人も出入りしていた慰安所、つまり民間の慰安所ですね。ただし性病の検査は軍医が担当していたということです。また外出等々自由というです。そうしてこの人が日本軍と関係するのでしょうか?本当に分かりません!

----------------------------------------------------------

■No18 朴徐云(1915年11月23日生)
 19歳ぐらいになった頃、食べる口をひとつ減らすためと、釜山近郊の田舎へ嫁に行った。うちから嫁に出されたのだが、新郎がどんな人なのかも知らずに行った。夫のもとから山に逃げたこともあった。わたしは都市で育ったので、綿花を採って機を織ったり畑仕事をするのが苦手で、姑からいじめられるのが常だった。夫はわたしを可愛がってくれたが、それでも1年も経たずに嫁ぎ先から追い出された。

 実家の暮らしがとても貧しかったので、再び実家に帰ることは思いもよらず、食堂に働きに行った。その後に売られて、母に300円を渡して食糧を買うように伝え、わたしはそれまで貯めてきた80円だけを持って、満州に来た。

 「満州では犬もお金をくわえて歩いているほどお金がたくさんある」という話を聞いて、お金を稼ぐために20歳で満州に行くことにした。初めはただ工場で働いたり雑用をするものと思って満州へ行った。約20人の女性が釜山から一緒に出発して来たのだが、その中には知り合いもいた。春化までは10人ぐらいが一緒に来たように覚えている。途中で日本人が経営する旅館に泊まった。行って何の仕事をするのかも知らず、ただお金を稼ぐためと汽車に乗り、満州・琿春まで来た。琿春から春化まではトラックに乗って来た。帰りたいと言っても、主人は帰してくれなかった。

 わたしたちを連れてきた人たちは、50歳ぐらいの朝鮮人夫婦だった。彼らが主人となって、わたしたちと一緒に過ごした。そのとき、住所を書いた紙を掛け布団の中に入れて来たのだが、慌しく過ごしているうちに失くしてしまい、お金がなくて掛け布団も売ってしまった。着てきたトゥルマギ(訳者注:外套のような着物)や時計などもみな売った。

 故郷の食堂で働いて稼いだお金で買ったものを、ここに来てみな売ってしまったのだ。何も知らずに来て、慰安所に到着してはじめて自分が慰安婦として売られてきたということを知った。「もう仕方ないな」と考えて、何もかも諦めるしかなかった。

 慰安所にいるとき、平日には軍人の相手をすることがほとんどできず、週末にだけ、5人ぐらいの軍人の相手をした。検査を受けて病気があると言われてからは、これ以上軍人の相手をしないように言われた。当時、わたしの名前は「ササキ」だった。病気だと、わたしの部屋の前に張り紙が貼られた。軍隊病院ではそれ以上注射も打ってくれず、治療もしてくれなかった。慰安所から追い出された後は家々を転々としながら、物乞いをするようにかろうじてご飯を食べて生きた。

 貧しくて売られた、その際300円を母親に渡した。売られた先は慰安所で平日は軍人お相手はできなかった・・・これもおそらく民間の慰安所ですね、それも主人は朝鮮人夫婦で、その人が連れてきた・・ということです。

----------------------------------------------------------

■No2  コン・ジョムヨプ(1920年生)
 ある日突然、男が3人家にやってきた。ひとりは日本人。(くちひげをはやしていた様子を手でまねながら)くちひげをちょびっとはやして、帽子も素敵に被っていた。上下黒いスーツで、白いワイシャツを着て、蝶ネクタイを結んでいた。あとのふたりは韓国人で韓服を着ていた。当時は韓服をよく着ていたんだ。通訳ひとりと村長さんの3人がやってきた。

 そうやって突然やってきて、日本に行ったら絹工場に就職できて、絹を織りながらお金もたんまり稼いで、楽して暮らせる。景色もいいし。お金を稼いで親に仕送りもできる。そうすれば両親は田畑を買ったりできると言うんだ。

 その人たちの話はもっともらしく聞こえた。貧しい暮らしをしているから、日本に、絹工場に行ったら、早くお金を送ることができれば、両親も助かるだろう。

 それでもわたしはそこに行く自信がなかった。そんな遠くまで行くなんて。それにわたしはそこの言葉(日本語)も知らないし。いくら考えても、行くのは気が進まなかった。

 「いくら考えても自信がない、わたしは行けない」と言ったら、父が(大声で)「そんなのじかに見ればわかるじゃないか。見れば習うものだ。最初からできる人なんてどこにいる?」それで、他の人も行くんだから行けと。そういう所に行って技術を習ってお金を稼いでくるべきだ、いつまで家の中で遊び暮らすつもりかと。

 そんなことを父から言われて、叱られて、「父さん、わたし死んでも行く、行くわ。行って死ぬとしても行ってくるわ」と男たちについていこうとしたら、やってきた人たち(韓国人ふたり)が気をよくしていた。日本人は何も言わなかった。

 ある日、許可が下りたと言われた。「何の許可?」と訊いたら、わたしの両親に、わたしの故郷の全羅道に電話して、法的に父親の承諾を得たということで、署でも許可が下り、客を取ることができるようになったという。

これは父親に売られたケースと思えます。ただし本人には事後だったということです。

----------------------------------------------------------

■No8 金順玉(1922年6月25日)
 18歳のとき(1940年頃)、中国・遼寧省に来ることになった。奉天から車に半日ほど乗って来て降りた。一緒に来た朝鮮人が、わたしを中国人に売ったのだった。

 そこは飲み屋で、夜になるとしきりに客の相手をしろと強要されたが、わたしは断った。そこではチマチョゴリを着ていたのだが、飲み屋に来た60代の朝鮮の老人がかわいそうだと言って、自分の家に連れて行って食事を食べさせてくれたこともある。半年後、その老人が借金の肩代わりをしてくれて、わたしは家に帰れることになった。

 家に帰ってきた後、再び新義州に売られて行って、40代の主人の養女となった。そこではキーセン(遊女)として登録して営業をした。わたしは容姿が美しくて歌も上手かったので、お客さんたちからかなりの人気を集めた。1年半ほど働き、借金をすべて返して家に帰って来た。
 
 20歳のとき(1942年頃)、再び売られて来て、中国の東寧に来ることになった。ある朝鮮の男から「工場に行けばお金を稼げる」と言われ、女性たちが大体30〜40人ぐらい一緒に行くことになった。そのときは、何をするのかも知らずに行った。どこがどこだかもわからずついて行った。平壌から汽車に乗って中国の牡丹江で下りると、日本の軍人たちが大勢いてびっくりした。そこからまたバスに乗って、東寧へ向かった。

 慰安所では、ひとつの部屋にひとりずつ割り当てられた。管理していた人は朝鮮人だった。そもそも、平壌からわたしたちを連れて来たその人だった。

 その「家」には看板も掛かっていたが、わたしは字が読めなかったので何と書かれているのかわからなかった。そこには、日本の軍人だけが来た。軍人たちは券を買って来て、1日にだいたい10枚ぐらいずつ券が入ってきた。軍人が主人から券を買って女性に渡すと、女性はそれを集めて夜に主人の所に持って行き、今日いくらもらえたのかを計算した。

 食事は主人が用意し、服や化粧品はすべて女性たちが買うことになっていた。近くにある軍隊病院に行って、一週間に一度検査を受けた。もし病気があると、扉の前に張り紙が貼られ、軍人たちの相手をさせないようにした。

 医者も軍人で、みな日本の男たちだった。ひどい病気にかかった人は、病院で何度も殴られることがあった。病気になると客の相手ができないので、主人が何度も殴った。「家」には風呂があって、客の相手をしたら風呂に行って体を洗い、赤い薬で洗った。軍人たちはみな、サックを付けることになっていた。

 いろいろ売られている人です。飲み屋だったりキーセン(遊女)だったり・・そして「工場へ行けば儲かる」という就職詐欺からの慰安所。この場合の就職詐欺ってどうなのでしょう・・・本当なのでしょうか。
 当時の東亜日報にも食堂主から売春を強要されたとか酌婦になる直前に防いだという記事がありました。飲み屋とか食堂での酌婦から慰安婦というのはお決まりのパターンだったのかもしれません。
画像

----------------------------------------------------------


 証言の中には、よくわからないものや「日本兵が、官憲が」という証言もあります。ただ少なくとも上記の証言内容の場合、その責任の所在は日本ではないと思われます。これを韓国の行政機関が運営するサイトに載せて、将来慰安婦に関する世界遺産を目指そうとする気がしれません。

 昨年12月民主党の議員団が韓国を訪れ女性家族部長官と面談したそうですが、その際、


 神本美恵子議員(現職議員、参議院3選、連盟事務局長)は「慰安婦問題は過去でなく現在の問題という長官様の認識に共感する。日本国内での紛争下の性暴力解決行動の課題に慰安婦問題を含ませようと努力している」ということを強調した・・ということだそうです。確かに上記のような証言内容なのに数十年後に日本の責任となるのであれば、現在、借金を背負って日本で体を売っている韓国人女性が将来「謝罪と賠償・・」と言いかねないので「現在の問題」ですね・・・ 
 (-。-)y-゜゜゜ ヤレヤレ





02/04追加 

神本美恵子議員の参院本会議での質問内容が議員のHPにUPされていましたので追加します。
http://www.kamimoto-mieko.net/doc/gijiroku140129.pdf

画像
「施政方針演説に対する質問」 2014/01/30 参院本会議



テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
気持玉数 : 17
なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー)
ナイス ナイス ナイス ナイス
面白い 面白い 面白い
驚いた 驚いた
ガッツ(がんばれ!) ガッツ(がんばれ!)
かわいい かわいい

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
2月22日は竹島の日




Web竹島問題研究所


----------------
テレビや新聞報道だけではわからない両者の違いを日韓交流サイトの掲示板から考えて見るサイトです。(最近は交流サイトネタが少ないですが・・・)

青文字は、韓国の人
赤文字は、日本の人

ネット掲示板」という顔が見えない特殊性のため、往々にして 過激な発言等が見られますが、そのへんは割り引いて読んでください。

お詫び:誤字脱字が多いので適宜修正しています。 (^^ゞ

■スパム対策のためコメント・トラックバックは承認制にしています。当ブログ・記事に全く関係のないものに関しては公開を控えさせていただき、削除いたしますのでご了承ください。
韓国慰安婦サイトにある『慰安婦証言』を見てみよう 日本人と韓国人 その似て非なる事 /BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる