【世界陸上】 大邱といえば・・・ 寿城池

世界陸上2011大邱大会が始まりました。

今日の女子マラソンを見ていると寿城池という池の周りがマラソンコースになっていました。
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世界陸上マラソンコース


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今は公園となっている寿城池ですが、これはもともと農業用貯水池で水崎林太郎という人が作った池です。

水崎林太郎さんは、1915年に開拓農民として渡韓し花栽培などで成功した後、土地改良組合長として未墾地が多い地元のため灌漑用貯水池の造成を決意しました。数年をかけて自ら測量、設計して役所に請願した。そして朝鮮総督府を数年かけて説得し予算1万2000円(現在の10億円相当)が下りて着工。自分もスコップを手にし、約10年後完工させました。

 祖父が骨身を削る思いで造り上げた寿城池(6万坪の広い池でした)は我が家から南へ500mほど離れた所にありました。祖父の林太郎は、その池の辺りに治水事務所を建て、そこで寝泊りしていました。よほど寿城池や周囲の水田の管理に神経を使っていたのでしょう。滅多に息子や孫の住む家に顔を見せることはありませんでした。
 そのせいか、小さかった私は当然にしても、2人の兄たちまで「林太郎おじいさんの顔は、よく思い出せない!白い髭だけは覚えているんだが…」という有様です。

当時、水崎農園で栽培された生花は韓国内だけでなく、遠く満洲の(今の中国東北部)にまで送られていたそうです。今から65年も昔に、多彩かつ大量の花の栽培に成功していた父の努力を思うと、我ながら自然に頭が下がってきます。さて花をはじめ、リンゴや米まで作っている水崎農場ですから、韓国の農民の人たちが(農作業を手伝うために)、たくさん通ってきていました。街で花屋を営んでいる韓国人の花屋さんたちも毎日、花の買い付けにやってきます。韓国人の花屋さんが毎日を買っていきました
 みんな顔なじみですから顔を合わせると「おはよう!」とか「そこに鎌があるから気を付けて!」とか声をかけてくれるのでした。
懐かしの大邱、想い出の人々 水崎弘三


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水崎林太郎さんは、寿城池の完成後の1939年亡くなりますが、彼の遺言で、寿城池の側に墓を建てられたそうです。水崎さんの家族は敗戦後日本に引き上げますが、水崎林太郎さんとと一緒に寿城池や水田の造成に協力し、終生の友として交際していた韓国人の徐寿仁さんがその墓を守ります。そしてその話を聞いた三男の徐彰教さんが自費で顕彰碑を作り、最初に水を引いた4月1日にちなんで、毎年4月に水崎林太郎の功績を称えているそうです。

西日本新聞(2007/04/02)には次のような記事があります。

周囲の宅地化が進んだ現在、池は灌漑用の役目を終え、市民の憩いの場だ。だが政治問題などで日韓関係が悪化すると「なぜ日本人を顕彰するのか」などと自宅に嫌がらせの電話が入ることもある。 徐さんは「恩恵を受けたことに目をそらしていることが悲しい。顕彰碑によって事実を知る人が広がってほしい」と願っている。

日本統治時代の台湾で、農業水利事業に大きな貢献をした人物で「八田與一」という人がいます。

当時アジア一といわれた烏山頭ダムの灌漑用水路の建設に現場監督として尽力した人で、1942年フィリピンに灌漑調査に向かう途中で、乗っていた船が米潜水艦発射した4発の魚雷により沈み死亡しました。妻の外代樹さんは、敗戦後、日本人は一人残らず台湾を去らなければならなくなった1945年9月1日未明に、烏山頭ダムの放水路に身を投じて、夫の後を追いました。

 現在、烏山頭ダムにある八田與一さんの銅像は、ダム完成後の1931年に作られたものですが、蒋介石時代に、日本の残した建築物や顕彰碑の破壊がなされた際には、地元の有志によって隠され,1981年になって再びダムに設置されるようになりました。八田 與一さんは、日本よりむしろ台湾で有名で、中学生向け教科書『認識台湾 歴史篇』に八田與一の業績は詳しく紹介されているそうです。また2009/5に行われた逝去67周忌慰霊祭には馬英九総統が出席しています。

規模は違いますが、水崎林太郎さんと八田與一さん、どちらも日本統治時代に地元のために活躍された方ですが、それに対する扱いが韓国と台湾では違いますね。

寿城池は、終戦後も大邱の農業に対して非常に大きな貢献をし、利益を得た人も大勢いたはずなのに・・・。



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