日帝時代の「米収奪」について考える その2

前回、日本が1889年大日本帝国憲法を公布、翌年帝国議会が発足し近代国家への道を歩むことから遅れること約20年、1910年の日韓併合により朝鮮半島の近代化が進むと書きました。

しかし実際には、1840年の阿片戦争、その後のアロー号事件を契機とした第二次阿片戦争で衰退していく清国を見て、日本は欧米列強に対して危機感を募らせ、その後の明治維新へと続きます。李氏朝鮮も1876年(明治9年)に日本との日朝修好条規を始め、アメリカやフランスなどの欧米諸国と条約を結ぶことになりました。(これは不平等条約と言われていますが・・)

その後、1882年(明治15年)の壬午事変を契機に日清両国の対立は決定的となり、1894年(明治27年)の日清戦争につながって行きます。そして1895年(明治28年)に日本が清国に勝利し締結した下関条約により清国に朝鮮が自主独立国であることを認めさせたことから、高宗朝鮮国王高宗は1897年(明治30年)に国号を「大韓」と改め、元号も「建陽」から「光武」に改元し皇帝に即位しました。これが「大韓帝国」です。

つまり朝鮮は日本と同様に近代化への道を進むことができたはずなのに結局は日本との併合という結果になってしまいます。この約50年間に李氏朝鮮がどうなっていたのか・・・もうここまで来ると歴史学の話になってしまうのでさっぱりですね ^^;

さて朝鮮お米の話に戻りましょう。インフラの整備や米の品種改良の他に農民が手間暇をかけないままだと朝鮮米は内地米に比べると等級が落ちてしまいます。っではどうすれば良いのかと言うことを前回紹介した京城日報 1914.8.29-1914.9.6(大正3)の「鮮米の改良」には次のように書いています。



鮮米の改良 (六)

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自ら小作人の利益也

▲小作人を潤おせ
疲弊したる朝鮮の小作人は自分の処で食う以上に残った米を高く売り之を生計に回す余力なく生産米にて生計するに過ぎないから朝鮮米改良について設備を充分に行う事が出来ぬ。故に改良米の利益は地主が受けることとなるから如何しても鮮米の改良には地主の協力を俟たねばならぬ。然らば此際地主は如何にすべきかと云うに若し米が改良されて一石に付き五十銭七十銭と高く売れた時には地主たるものはその一部分を割いて小作人に与えると云う風に、苟くも労力を加ふれば夫れ丈け必ず報酬が伴うと云う事を小作人に自覚させたい、時は金なりと云う諺があるが農業に対して労働即ち金である事を自覚させたい

▲名誉回復を誇れ

小作人が米の改良に注意して蓆(むしろ)を布いて其上で脱穀する、採種田を設けて精選したる種を播く、乾燥も念入りにする。而して夫れ丈けの労力に対しては報酬が加わらねばならぬ。小作人の利益は即ち地主の利益である地主の利益は又小作人の利益である斯くの如くして改良が出来る。更に進んで考えるに地主は敢て手近かの利益をのみ思わずして内地に於ける朝鮮米の格下げの不名誉を回復するを本旨とし余計に収入された金額は小作人に与えて己れは名誉回復の誇を以て満足するようにしたいものである。実際米さえ良ければ何時でも輸出は出来る而して米の改良は小作人の勤労であって地主の勤労でない且つ品種の改良を行うについても能く打合せて余り品種の雑多にならぬ様に気を付けて貰わねばならぬ品種が余り多ければ値段が下る。故に何処の改良米は何種であると云う代表的のものを出して欲しい


【京城日報 1914.8.29-1914.9.6(大正3)】 神戸大学附属図書館「デジタル版新聞記事文庫」


つまりここでは①小作人の意識改革②地主の意識改革が必要と言うことが書いてあります。

①小作人の意識改革
朝鮮の小作人は生産米にて生計するに過ぎない(=食べるための米)と言うことから、労力を加えれば報酬が伴うすなわち農業に対して労働即ち金である事(=商品としての米)を自覚するという事が必要だと書いています。

②地主の意識改革
米の改良は小作人の勤労であって地主の勤労でない。地主は目先の利益をのみ思わずして内地に於ける朝鮮米の格下げの不名誉を回復するを本旨とし余計に収入された金額は小作人に与えて己れは名誉回復の誇を以て満足するようにしたい


では具体的に小作料決定の方法とはどういうものだったのでしょう。京城日報 1922.12.13-1922.12.27(大正11)】 朝鮮の小作制度に就てと言う記事に詳しく書いていました。大別すると①分益法と②定額法の二つ、さらに分けると分益法には「打作と執穂」があり、定額法には「賭只と永賭」の二つに分けることができます。



分益法

その年の収穫物についてそれを分配する方法

①打作
藁及副産物は小作人が全部之を収得し小作料の運搬及地租を負担する。種子は初年は地主から供給し次年から収穫物から回収し、地租は地主又は地主小作人共同で負担する

②執穂
穂の成熟した時地主と小作人とが立会の上作柄を検見して収穫予想高を協定商議して、その半分を以てその年の小作料と定め立会打作の煩を省く。協定後災害のあった場合は実状の如何に依って減免を例として居る。
藁は小作人が収得しその代り小作料の運搬料は小作人の負担で、地租は地主又は地主小作人共同負担とすることは打作と同様


ここに書かれていることで注目したいのは「蕎」のことです。蕎は元々肥沃の土地には向かない作物で茎ばかりが大きくなり実が付かないのだそうです。荒れた土地、水はけのよい土地に良い蕎麦は育つとか言われますがそれを考えると米を作る水田とかには向かない土地のようですね。



定額法

豊凶の如何を問わず、一定の小作料を支払って土地を小作する方法

①賭只
小作人から一定の額を毎年収穫後に穀物又は金銭で地主に支払うもの。垈及田に多く行われて居る定額の標準は通常その地方の同等地の主要作物平年作収穫の4割内外を以て定め之を時価に換算した籾又は金銭代物を以てし普通四五年間之を更新しない。地租は小作人之を負担するを常として居る

②永賭
賭只の一種で10年間又は永久に賭額を一定し地主権は小作人の任意に使用するもの。垈煙草人参其の他特用作物を耕作する田に多く行われ地租は小作人が負担することに為って居る又小作人が地主権を禾利と称して他に転売することが出来る



こちらの方法では「籾」という言葉が出てきます。米の場合定額法(賭只)が多かったのでしょうか。すると「豊凶の如何を問わず」ですし、「収穫の4割」と言っても「地租は小作人」ですから結構な負担と考えられますね。

注:「垈(たい)」という字は「ぬた」とも読みますがJIS漢字表に存在する「幽霊文字」の一つだそうです。意味はよくわかりませんでした。


当時の朝鮮半島にはどれ位の小作人が居たのでしょう。ネットで調べると具体的な数字も探すことができますが、先の京城日報 1922.12.13-1922.12.27(大正11)】 朝鮮の小作制度に就てにも大まかな数字が書かれているのでそれを紹介します。

朝鮮現下の在住民の七割強は農民であり其七割強の農民中約八割は小作農民である。

果して然らばこの小作人対地主問題は為政者の多大なる考慮を払わねばならぬ重要問題であると同時に一種の社会問題としても極めれ重要なる意義を有して居るものであろう


この「一種の社会問題」とはどういうことでしょう。

李太祖は私田の廃止と賦歛の均等とを主唱して恭譲王二年には朝廷をして田籍を焼却せしめ李朝革代と共に太祖は早速田制の整理に努力したが結局田地の私有と小作の慣行は麗朝と異なることなく一般に公行し而して権門貴族は益々田地を獲得して地主となり細民は小作人となって茲に上下階級の関係を生じ爾来幾度か変遷して今日に及んで居るのである

朝鮮の田制は如上の沿革を閲して来た為めその小作制度と云うものは別に何等立法的に徴すべきものは無くただ各地に於ける事実を引証して慣例的に行われてをるのである従って此の実行なるものは常に強者たる地主の利益に為めに変改され易い状態にあるのだが朝鮮の小作制度なるものはまさに斯くの如き状態に置かれて居る


「春窮麦嶺越え難し」

朝鮮時代の農民たちは秋の収穫又は金銭を小作料として地主納めなくてはならず、残った収穫で冬を越さざるを得ませんでしたが、春麦の収穫までの端境期にはそのわずかな蓄えも無くなり、草の根や木の皮を塩水で煮て食いつないでいました。これの時期を「春窮」と呼びます。この時期には大量の餓死者が出ることも珍しくないことだったことから「春窮麦嶺越え難し」と言う言葉が生まれたようです。

そういう状況で考えておかなければならないのは、日帝が米を収奪したというと「日帝vs農民」と言う構図で書かれていることが多く「日帝vs地主」という書き方がされていないことです。収奪をしようとすると日本は従来の既得権者つまり両班を中心とする地主にとって代れば良い事なのですがそういう書き方はされていないことは覚えておかなければなりません。

さて小作は契約行為ですからその成立は両者の合意が必要なのですが朝鮮の場合は口頭のことが多いようです。

一、小作人は従来耕作し来ったもの又は小作人の随意に占耕するものに対して播種期に至るまで地主が別に反対の意思表示をしない時は小作契約は成立する
二、地主が耕作を依頼した時に之に対して播種期に至るまで小作人が別に反対の意志を表示せない時は小作契約は成立する
三、双方口頭を以て約諾したるときは小作契約は成立する


ただ後日紛議を譲発する恐れのある場合には覚書的に文面を作成することがあったようです。しかし日本が小作の関係に契約と言うことを行うようになり朝鮮人の民間地主等も契約書を使用するものが次第に多くなってきました。

第一は、明治三十九年(1906年)財政顧問部の制定に依る駅屯土の小作認許証なるもの
第二は、明治四十二年(1909年)以来東洋拓殖株式会社の制定に依る小作証
第三は、合併後(1910年)に於て内地人が地主となるに至っては彼の牌旨や賭只手票の類には満足することが出来ず勢い内地式の稍厳密なる契約証書を用うる様になった


ここで朝鮮人の民間地主等も契約書の一例が示されていますが、「侯爵 李完用家」と書かれています。李完用と言えば1910年の日韓併合条約に大韓帝国皇帝純宗から全権委任され調印した人です。



しかし「慶北の大地主である張古相氏の小作契約は非常に激烈なる文字を使用してある而も小作料は表面金納と定めてあるが事実は穀物を以て徴収して居る」と言うことも書かれていて朝鮮人契約書に関して次の様にも書かれています。

小作契約書は昨今各地方に流行して地主から印刷物を廻附して無学文盲なる小作人に捺印を為さしめて居るのである。如何なる理由に基いてこの種小作契約が流行するに至ったかと言うに現今地方の実状は地主は絶対の権力者で小作人の全生活を支配して居り契約の有無に拘らず小作人の上に横暴を逞うして居るのである。

従って小作契約書の如き成文を為す必要が無い訳だが是は小作関係改善上の必要と云うより寧ろ官憲の干渉を招致せんを慮れてそれに備えようとするのが盖し彼等の真意と見らるるのである



日本でも農村でその年の収穫を祈願するとか秋の豊穣を祝う場合と言うのは「五穀」という言葉を使います。五穀と言うと私は「米・麦・粟・黍・稗」なのかなと思ってしまいますが、その土地で収穫できる作物とかも違いますので特定の作物と言うことはないようです(wiki)。日本にしろおそらく朝鮮半島にしろ昔の農村では米だけではなく他の作物を混ぜて食べる、むしろ主食は米以外と言うことだったかもしれません。昭和30年代の日本でも「貧乏人は麦を食え」なんて当時の総理大臣が言ったということもあったようです。

米の収奪について書かれているものを見ると「日帝が米を奪う若しくは安く買って行ってので、安い満州粟を食べなくてはならなかった」と言うのも目にします。しかし元々米以外の穀物を主食として食べていたのなら「こういう理由もどうなのかな」と思ってしまいますが、次回はその辺りを考えてみます。

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