日帝時代の「米収奪」について考える その4



昭和5年11月~6年5月の期間が暴落しているのは、内地6687万石、朝鮮1908万石と云う空前の大増収だったためで米価が桁外れの安値になってしまいました。

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日本でも農閑期に出稼ぎに行っていた農民がいるように朝鮮半島の農民も出稼ぎをしていました。出稼ぎ先は日本ですが・・・。1924年(大正13年)に大阪市社会部調査課による『労働調査報告 第28号』によれば「正月と祖先の祭礼の時期には帰るものが多い他に南鮮の小作農民が農繁期に帰農するもの多く北陸地方の出稼ぎのようだ」と書いているように農業だけでは食べていけず日本に出稼ぎに来ている農民も居たようです。そんな中での大豊作です。

【豊作飢饉】

豊作のため農作物の価格が下落して、かえって農家の経済が窮迫すること。

豊作であるにもかかわらず,作物価格の下落などで飢饉時と同様に農家収入が大幅に減少すること。価格が低落しなければ,豊作は農業収入を増大させる。しかし農産物価格は,政府などによる価格維持政策がないかぎり下落する傾向をもっており,豊作時にはますますこうした動きが激しくなる。その場合,農家は自家消費予定分までも販売しようとするが,これもまた価格の下落に結びつき,農家の生活が一層悪化する。こうした状態は,日本でも昭和初年の恐慌時にみられ,社会問題となった。第2次世界大戦後は,先進各国とも農産物価格維持政策をとり,基本的にはこうした現象は少くなった。



昭和5年(1930年)の大豊作は米価の大暴落を招き1917年以来の安値となりました。それは農家にとって「豊作飢饉」とも言える年でした。
画像政府は、鮮米の月割移出、外米関税引上げ、満洲粟の関税引上げなどを計画しますが、朝鮮総督府は「粟に関税を課して輸入を制限することは北鮮方面の粟を常食とする鮮人を圧迫することになり、これに鮮米を代食せしめんとするも粟の方が価格頗る安く経済的に見て絶対に不可能である」と反対します。
【大阪毎日新聞 1930.10.8(昭和5)】 鮮米の調節は困難
さらに同記事には次のようなことも書いています。

豊作受難 水利組合費だけも取れず朝鮮で美田の投売り

昨今の朝鮮には立派な水田十町歩を二千五百円というべらぼうに安い値で売りに出したが買うものがないというそのような農村の豊作受難を裏書する話があるー総督府は産米増殖計画で鮮内各地に水利組合の設置を奨励し巨額の工事費を投じ大貯水池や排水路などが出来て従来の如き洪水や旱魃の難を逃れることが出来たが工事費起債により毎年多額の組合費を徴収され水利組合費の額は慶尚南道だけの例に見ても水田一反当たり毎年額約二十五円という重い負担の土地もある、一年反当たり収穫を五石として石四円五十銭内外の籾の相場では二十二円の収入しかなくこれでは水利組合費反当たり二十五円には三円不足する上に小作料、肥料代、各種公課金等で損になるので誰も買手が出ぬ訳で、朝鮮水利組合の経営をいかに改めるかは漸く問題になって来た(釜山発)


朝鮮半島の日本人所有の耕地面積の上昇が併合直後と1928年-1935年の二回大きな上昇をします。


「米の収奪」や「土地の収奪」の理由の一つとして「日帝が米や土地を収奪したので自作農が減って小作農が増えた」と言われています。確かに先の記事にあるように朝鮮半島では土地を手放す農民が増えます。しかしこの年は朝鮮半島だけではなく日本でもおなじように米を作っても大赤字になるような状態ですので、朝鮮半島でも赤字のために水田を手放した農民が多く、それを引き受けたのが日本人だったということです。

この時期の日本の状況を書いた記事です。


昭和五年度産の玄米生産費に関し帝国農会が全国各府県に調査を行えるうち四日までに報告のあった三十二府県、五百五十戸の分を集計すると左の如く。石当り全農家平均二十六円四十四銭の生産費であり之を農家が十月末までに売払いたる庭先相場石十七円二十二銭に比較すると一石九円二十二銭の欠損である。

更に一反あたりの関係について見ると全生産費は八十円三十銭であるに対し総生産物価格五十三円十銭であるから二十七円二十銭の不足となる、即ち米価十七円二十二銭なる時には労賃又は土地資本利子が皆無となる訳である

同じ調査報告に関する神戸新聞の記事には「米を作る惨めさ 只働きをした上に資本利子まで棒に振る」というタイトルをつけています。


この頃は、1929年(昭和4年)10月24日にウォール街大暴落に端を発した世界恐慌に巻き込まれ「昭和恐慌」と呼ばれていて農村だけではなく大都市でも失業者増えていた時代です。

デフレに豊作が重なり米価が激しく下落したことで農村は壊滅的な打撃を受け、さらに追い打ちをかけるように東北地方では昭和6年(1931年)の冷害、昭和8年(1933年)には昭和三陸津波、さらに翌昭和9年(1934年)には凶作と「昭和東北大飢饉」となった時代で、疲弊した農村では娘を売る身売りや欠食児童が急増しました。

この頃の朝鮮農家の負債状況の記事がありました。


全鮮農家の七割借金で四苦八苦

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哀れ生活費の赤字
朝鮮農村に於ける農業資金としての負債額につき本府当局が小作慣行調査に附随して調べたところによると昭和五年末の現在は次の如くである

各種銀行   貸出   一億七千三百七十三万四千円
東拓      貸出      八千二百六万七千円
金組その他  貸出   二億八千四百八十二万六千円
             計 五億四千六十二万七千円

地主  土地購入資金、農業資金、土改資金、保証債務、浪費、商工業投資、投機、教育費冠婚葬祭費
小作  大部分生活費、冠婚葬祭費、農業資金

この他に個人賃借も相当莫大なる額に上る見込みで全鮮農家の七十パーセントが借金に悩まされて居るが当局者の談によると一戸当り先ず二百円見当の負債を背負っている模様である、なお右借金は地主に於ては大体抵当債務、小作に於ては信用貸でその種類は次の如くである


京城日報 1932.6.14(昭和7)


朝鮮の全農家の70%、農家一戸当たり200円の負債を抱えているという記事です。ではその頃の日本の農家の状況はどうでしょう。県単位で調べたものとかいろいろな記事があるのですが「農家の負債整理計画のために二十九道府県六十町村に就いて農林省経済更生部で調査した結果」の記事がありましたのでそれを紹介します。



借金農家七七% 一戸八百十三円

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更生に踏出した村でこれ
政府は農家の負債整理のため負債整理法案を議会に提出せんとしているが農林省経済更生部では既に負債整理計画を樹立しその実行に乗り出した二十九道府県六十町村に就いて調査した結果を十三日発表した時あたかも農家負債整理が論議の中心たる折とて之等諸町村に於ける負債整理の状況は頗る注目されている、その大要左の通り

農家負債整理案概況

一、農家の負債
六十事例中比較的詳細に調査せる二十三事例に就いて負債の状況を見れば、区域内の農家総戸数九千九百六十三戸中負債を有する戸数は七千七百五十戸で七七%八の割合となり階級的には小作農最多く七九%三、次は自小作農の七八%五、自作農の七四%八の順序である。一農家当り負債額は自作農最高で千百五十九円、次は自小作農の九百八十七円、小作農四百三円で、平均一農家当りの負債は八百十三円である。機関は信用組合が最多いが一農家は平均三種類の金融機関を利用している。負債内容は無担保が五二%二を占め利率は一割内外が多く中には一割五分以上にのぼるものもある


時事新報 1933.2.14(昭和8)


調査した約一万戸の農家のうち実に約8割(77%)が負債を抱えています。そして小作農だけ見ても朝鮮全農家の倍の負債額です。全農家平均だと実に4倍という数字です。如何に日本の農家が苦労していたかがわかる記事です。この頃朝鮮総督府も大豊作による米価下落に対して日本への移出を減らすのに努力しているという記事がありますが・・・・。


しかしその後も朝鮮米は日本に入ってきます。


こうして日本国内では疲弊した農家を守るため朝鮮米の輸入に対する風当たりが強くなって行きます。




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